ささくれた心のはきだめ。

語学と部活動、その他諸々に忙殺されている大学生の戯れ言を綴った日記です。

心。

こんばんは。

心。気持ち。精神。思想。
健康で文化的な生活を送る人間と、切っても切り離せないものですよね。
素敵な心があるから人生は豊かになりますし、逆に心が乱れれば人生もどんどん荒んでいくものです。


人の気持ちというものは、どう頑張ってもその本人にしか分かりえないものだと思います。
それは、いくら言葉を尽くしても、同じ人生経験と同じ体験下で感じていないから、本当に気持ちを共有できているか分からないという考えでもあります。
ある二人の人間が同じ料理を食べて、二人とも「美味しい!」と言ったとしても、その美味しさの程度は違う可能性があります。その味にどことなく懐かしさを感じているかもしれませんし、初めての味だと感じているかもしれません。 その味の具体的にどこがいいのか、という好みも違うかもしれません。
言葉というものはとても素敵な人の道具だと思います。しかし、自分の言いたいことが伝わっていないと、日頃良く感じる私からすると、その人の力量次第ではすぐに限界を迎えてしまうものだとも感じています。

ただ、私が、人の気持ちや考えというのは本人にしか分かりえないものであると強く思うのは、言動で表された気持ちの正解は、その心を持つその人にしか確かめようが無いという考えが元でもあるのです。
いくら言葉を尽くしていても、いくら態度で示していても、それが本当だという確証はどこにもありません。その人がとてつもないペテン師であるかもしれません。
愛してる という言葉が本当の気持ちなのか、そんなのは発したその人にしか分からないのです。
ましてや、その人が精神的に病んでしまい、自分の感情というものがよく分からなくなってしまっていたら、いよいよ人の気持ちというものは、誰にもわからないのかもしれません。

それは裏を返せば、自分の気持ちを証明するということは、とてもとても難しいものだということです。
日々生きている中で見る、人のとびきりの笑顔や涙は、そこに疑う必要性を感じていないからこそすんなりと受け止められていますが、その人が今まで一度も自分に本当の気持ちを見せていないという可能性を完全に否定できる術を、私は知りません。

だからこそ私は、人との信頼を築くということはとても尊いものであるとも感じています。
人の心が、他人には真には分かりえないものであるからこそ、信頼しあっている関係が尊いものになるのでしょう。
人生の中で誰かとそういう関係を築くことが出来ることを祈りつつ、今回の文章をしめようとおもいます。

追伸
精神的な心(heart)がある、とよく想像される場所は、漢字の通り心臓のあたりかと思いますが、国(文化圏)によっては肝臓だったりするそうです!興味深い…

それでは、よい夢を。