ささくれた心のはきだめ。

語学と部活動、その他諸々に忙殺されている大学生の戯れ言を綴った日記です。

人間不信。

こんばんは。
こんなブログをわざわざ見つけて下さり、ありがとうございます。
暇潰しにでも読んでもらえれば幸いです。

最初の記事からなんだか重いなぁとは思うけれども、人間不信について書こうと思います。
日々の人付き合いやSNSでもやもやが溜まって気づいたらブログを開設していたので、この内容で投稿します。
題名の通り、じめじめした内容が続きます。万が一気分を害してしまったらごめんなさい。


私自身、人間不信だなぁと思うときと、やはり自分は単純な人間だと思うときがあります。

前者についてですが、私は人からの好意をあまり素直に受け取れません。お世辞だとか、本当は大して好きじゃないんだろうなとか、すぐに疑ってしまう。
毎日のように「好きー!」って言ってくれるような人は(人生史上3人ほどいます)、それが嘘だと流石に怖すぎるということもあって信じますが、普段普通にお話してくれる、自分が友人だと思っている人達は、私の事を本当はどう思っているのか。
嫌いなのに私が来たときに「対応」してくれているだけなんじゃないのか。裏では散々な言われ方をしているんじゃないのか。

このように日々疑いがつきません。嫌な人間になったとつくづく思います。
大半は家に帰って一人でいるときにこの疑念に悩まされるのですが、この疑いの呪縛に囚われたまま人と話しているときは辛いです。相手の笑顔も、発せられる言葉も、引き攣った不自然なものに見え始めて苦しい。

大人な人からすれば馬鹿らしいかもしれないですね。でも、この呪縛を呪縛と捉えて、そんなことないんだよー! って考えようとすると、私ごときが何を思い上がっているんだと思い、抜け出せない。

書いていて面倒くさい人間だなとは思います。ほんとに、どうしたらいいんでしょう。(笑)

褒められたときにもぎこちない対応しか出来ず、申し訳ない気持ちとともに、でも嘘なんだろうなぁ…素直に受け取ると気持ち悪いかなぁ…とも考えてしまいます。

それでも、褒められたり、自分の振った話で相手が笑ってくれると嬉しい。そんな所を見ると、後者のように思うんです。特に、自分がふざけたりして相手が笑ってくれることにはとても幸せを感じます。ほんとに、自分が関わる人には笑っていてほしいものです。

もしかしてそういう職業(芸能人)は自分にとって天職なのでは?と自問したことがありますが、センスもない上に心が弱すぎるので、持たずに発狂して自殺しそうなので無理ですかね!(笑)

話を戻します。
自分は人間不信かと言われると、そうではない節もあると思うのですが、そもそも人間不信はどこから湧いてくるのか。
これは、人間不信というのになった契機にもよると思うので一概には言えませんが、特に私の場合は自分不信であるところが大元にあると思います。
人に何度も裏切られたりして「もう何も信じられない…頼れるのは自分だけ。」という理由で人が信じられない人もいるとは思います。
「裏切り」に関してはそんなに酷いものに遭ったことはないので、私はそういう理由ではないなぁと思っています。
私の場合、「本当は、人は私のことが嫌いなんだ」という思いから信じられなくなることが多いので、それはやはり自分を信じられるようになるしか、克服するすべはないのかなと、最近思います。

ではどうすれば自分を信じられるようになるのか。

…分かりません!
歌や絵など、まだまだ拙いのは充分承知ですが、これまでそれらを理由に人に褒められた経験や自負から、どこかで少しばかり自分に自信は持っていて、でもそれを否定したい自分もいて…という状態なので。
自分のありのままを認めて、他人の考えも認められ、素直に受け止められる人は、本当に素晴らしいと思い、憧れます。
いつかそんなに人になれたらいいなぁ。